筒井康隆-ダンシング・ヴァニティ(第一部)追記あり

昨年発売された最新作品集である「壊れかた指南」において、作者である筒井康隆は夢を小説に投影する様々な手法を読み手に提示したのだと思っている。



その中の幾つかの作品においては、これまでの小説における暗黙の了解からみれば理解しがたい文脈、シチュエーション、結末があり、従来型の小説規範に則って小説を楽しみたいと思う読み手ほど、その奇異性に慣れることができずに「おもしろくない」と途中で投げ出すこともあったのではないだろうか。
時に不条理、時に現実的、時に結末らしい結末もなく終わる。
「そんなもの、筒井作品に過去数多あったではないか」と筒井ファンたる読み手は思う。
と同時にそういった従来の作品とはまったく違うことにも気づいている。
そもそもこれまでのものとは、立脚している規範が違うことにも気づいているはずだ。
作者は夢と小説のそれぞれの規範や体裁を、どのように融合しそれと同時に破壊することが可能かをとことん模索し書き詰める。
そこには「読み手が楽しめる範囲で」などという限定条件や妥協はない。
その結果として、小説という分野のフィールドの広さ、懐の深さ、奔放とも言えるその自由、そして嗜虐的とも言える読むことの楽しさを我々に教えてくれた。
ではその融合と破壊を長編でやってしまえばどうか。
その答えが新潮2月号トップに掲載された「ダンシング・ヴァニティ」(第一部)ではないだろうか。

「壊れかた指南」を読んだ者であれば、冒頭の数ページで「ははぁん、これは夢の話だな」と気がつくであろう。
微妙に変化しながら繰り返す主人公視点の世界。
変化の象徴またはスイッチのように存在する白い顔のフクロウ。
やっと現実に戻ってこれたような気がした途端、再び引き戻される焦燥感。
死者と生者のグロテスクな邂逅。
強迫神経症によって首を左右に振り続ける妻は、果たして実在なのか。
ならば、母親は、妹は、出版部長とその秘書は、いやそもそも主人公には読み手にとって信頼できる主人公たる資格があるのか。
読み手のあらゆる疑問が解消されないまま話が展開することによる隔靴掻痒が、感情移入を困難にする。

精神科医が登場するに至って、読み手は「死夢」が現実世界で起こっているニュースであり、ここでの主人公と精神科医は現実世界の住人だと思う。
そしてこれまでの疑問を解消するための、何らかの救いの手が差し伸べられるだろうと目を見開き、胸と鼻を膨らませる。
私もここで「筒井さんは優しいなあ」と思ってしまった。
しかしそれほど甘くはなかった。
怖い夢から覚醒する方法を話していた精神科医が突然立ち上がり、からだごと壁にぶち当たる。
鼻血を拭いながら話を続ける精神科医の異常な行動を異常とも思っていないような主人公を見るにつけ、そんな伏線があったのだろうかと2,3ページ前を読み返してみるも、そんなものはない。
「筒井さんはちっとも優しくない」のである。
これでもかこれでもかと読み手を翻弄し、読み続けるか本を投げ出すかの選択を迫る。
優しくないのではあるが、読み手として、この(小説内の)現実と(小説内の)夢との間(はざま)で、どっちつかずの浮遊感を極めて嗜虐的に楽しまねば損であるし、もしかしたら「夢落ち」の可能性もあるのだから、それへの体制と耐性をここで整えておかねばなるまい。

「朝のガスパール」で作者は立体螺旋構造を書き出して見せた。
時間軸を垂直にとり紙面に屹立した精緻な螺旋階段を、我々は上らずにはいられなかった。
しかし「ダンシング・ヴァニティ」には我々を高みへと上らしめるステップもなければ手摺りもない。
現実と夢は同じ脳内で認識されるものであるにもかかわらず、隣接しながらも現実の感覚を超越した次元の違う異世界なのだから、迷い戸惑うのは当然であろう。
つまり「朝のガスパール」の立体螺旋構造に対して、「ダンシング・ヴァニティ」は紙面上に突如出現した多層多元の宇宙である。
この宇宙には、各層を繋げる為の梯子もなければ、よじ登るための柱もないし、突然ある時点から別の階層のある時点へ、有無を言わせず引き戻されたりもする。
それを楽しみながら彷徨うためには、「筒井式夢幻投影法」をマスターし「ダンヴァニ・ヒッチハイク・ガイド」を携え、それでもなお手探りで不確かな足場をそろそろと踏みながら、似て非なる各階層を、池に置かれた飛び石を飛ぶように移動するしかないのだ。
その飛び石は時々沈んだり、突発的に空中に浮き上がったり、ほかの飛び石と入れ子になったり、グルグル回転しながらすっ飛んでいくこともあるが、その所々には、もちろん江戸時代にも白い顔のフクロウが案内役として待機してくれている。

作者がニヤニヤと笑いながら書いているのか、生みの苦しみに悶えながら書いているのか、もうそんなことはどうでもいい。
我々としては、ここは我慢しつつも嗜虐的に楽しまねばなるまいと思い、眉間に皺を寄せじっくりと読み下すしかないのだ。
もちろん、大いなる解放に期待しながら、である。
(・・・それに期待すること自体が旧弊な読み手である証拠なのだ)

追記
てっきり昨日(20070207)発売の新潮3月号に第二部掲載かと思っていたけど、考えてみればそんなわけはないので、僕としては第一部の謎についてチョーテキトウな解釈をしてみたい。

根幹となる夢と現実の曖昧さと微妙に変化しながら繰り返す事象の原因は強迫神経症で首を振り続ける主人公(本当に主人公なのか)の妻に同期しているのではないかと思う。
振り続ける残像によってぼやける顔の輪郭はそのまま夢と現実の曖昧さにつながる。
また必ずしも振幅が一定ではないことが事象に微妙な変化をもたらしているのだ。
ではなぜ場面が自宅・別荘・マンション・出版社など変化するのか。
左右の振幅差は同じ場面の繰り返しに対応し上下の振幅差は場所の移動に対応する。
では、突然江戸時代に飛んだり時空を超えて元の自宅に戻ったりするのはなぜか。
これは「揺り戻し」である。
この時妻の強迫神経症は治っているのだからこれまで長年首を振り続けてきたことによる巨大なエネルギーが放出されるであろうことは想像に難くない。
たとえこれまで小出しにしてきたとしてもそれはあくまでエネルギーの僅かな漏出程度でありそれですら夢と現実の境界を不明にし時間を巻き戻す力があるのだ。
「死夢」も妻の首振り減少およびその停止と無縁ではないはずだ。
つまり黒幕とも言うべき影の主人公は妻なのである。

「ダンシング・バニティ」という題名とこれらの仮定がどう結びつくのか・・・
それは知らない。
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  by savaoex | 2007-02-08 10:16 | 読書

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